牛銀の人々

食生活の変化でこの頃から但馬牛の肉牛としての品種の良さは知られており、市場でも高価に取り引きされていた。
その但馬牛を伊勢地方の農家は、暖かな風土と愛情で育て、伊勢肉、松阪肉と呼ばれるようになり東京で評判を呼んでいた。
その牛追い道中を見ていた少年小林銀蔵が、のちの「牛銀」を開店する事になります。
小林少年は、大量消費されていく東京の町に、そんなにうまいものなら自分でさばいてみたいと、東京の「米久」に奉公に出ました。
つらく長い奉公・お礼奉公も終え、やっと松阪本町に牛肉店を開業する事となります。明治三十五年(1902)九月、96年前の事です。
当時の最新式の牛肉処理技術を身に付け、その味は評判になった。というのは、それまでの肉は明治四年仮名魯文(カナガキロブン)の書いた「牛店雑談安愚楽鍋(アグラナベ)」に出てくるような鍋で、肉の部位を考えず、ぶつ切り肉にネギだけを入れ味噌で味付けをしていたようです。

好調な成績で商売を続けておりましたが、大正末期に火災に見舞われたため、現在地松阪市魚町に現在の店舗を建築致しました。
その後昭和七年三月「合資会社牛銀本店」として会社設立。
当時松阪に七十社ほどの会社が設立されており、その一社として「松阪市史」の中に記載されております。
昭和二十四年一月三十一日「株式会社牛銀本店」として株式会社に生まれ変わり、経営改善を行うと共に「すきやき」「あみ焼き」の専門店として、今日に至っております。